長くて短い日本茶の歴史。正しく知りたい抹茶と煎茶のルーツ。

ストーリー

2017.12.11

現在、私たちが日常的に飲んでいるお茶。その起源はどのようになっているのでしょうか。実は日本でのお茶の歴史はとても長いと同時に、いまのスタイルとなってからは意外にも短いものです。日本でお茶が飲まれるようになったのはいつでしょうか。お茶が飲まれるようになったのはなぜでしょうか。日本でお茶を最初に植えたのは誰なのでしょうか。本稿ではお茶の歴史を紐解いてご紹介したいと思います。

茶は中国から持ち込まれた

日本での茶の歴史は、奈良〜平安時代初期に中国から持ち込まれたことから始まります。茶は中国が原産地といわれ、中国で飲み物として発展してきた経緯があります。そんななか、当時の日本は先進国であった唐(中国)の文化や学問・制度などを学んで自国へ取り込もうという風潮で、遣唐使を唐に派遣し、現地で仏教を学ぶ留学僧もいました。唐で仏教や文化などを学ぶ中で、彼らは茶の存在を知り、現在の嗜好品としての茶に繋がりますが、当時の唐では茶を薬として服用していたようです。唐の先進文化の一つとして取り入れるため、茶も仏教とともに遣唐使・留学僧の手によって日本へ伝来しました。ちなみに茶は日本に自生していたという説もありますが、現段階では有力な説ではないとみられています。

茶が中国から伝来した時期については、奈良時代に伝わったという説と平安時代の初期に伝わったという説があります。しかしながら、解明されていない部分が残されており、一般的には平安時代初期に伝来した説が有力視され、805年に唐へわたっていた天台宗開祖の最澄らが帰国し、このとき最澄の手によって茶の種が日本に伝えられたといわれています。日吉大社(滋賀県大津市)に伝わる、安土桃山時代にまとめられた言い伝え集『日吉社神道秘密記』には、最澄が805年(延暦24年)に唐より茶の種を持ち帰ったこと、そして比叡山のふもと(現在の滋賀県大津市坂本地区)に植えて栽培したことが記録されています。なんとこの茶畑は現在も坂本地区に「日吉茶園」として残されています。文献に残る最古の茶の記述は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に編纂された『日本後記(にほんこうき)』で、嵯峨天皇が近江国の梵釈寺で大僧都(だいそうず)の永忠(えいちゅう)により茶が煎じられてふるまわれた旨が記されています。この後、嵯峨天皇は茶の栽培を命じて、上流階級の行事で茶が出されたそうです。

茶は伝来した当初、どのように飲まれていた?

唐で茶が薬として服用されていたように、当時の日本でも滋養強壮・体調不良回復のために飲まれていました。ちょうど今でいう健康食品・健康飲料のような感覚だったのではないでしょうか。また当時の茶は現在のものと形式がちがい、団茶(だんちゃ)と呼ばれる、茶葉を蒸してすりつぶし固形状にして乾燥させたもので、飲むときは火であぶってから粉にして湯の中に入れて煮るものでした。当時、茶はとても貴重であったため、皇族や有力僧侶、貴族階級などの上流階級の人しか飲むことができず、とても一般の人々が飲めるものではありませんでした。上流階級の間で健康のために飲まれるようになった茶は、一部にしか広まらず、遣唐使が廃止になったことで、日本に定着せずに一度茶の文化は廃れていってしまいました。文献にも『日本後紀』以降300年にわたり記載されていないことからもその衰退が伺えます。

再度、鎌倉時代に中国から持ち込まれ、宇治茶の起源に

一度廃れてしまった茶は、1191年(建久2年)に臨済宗開祖の栄西が修業先の宋(中国)から種として日本に持ち帰ります。宋の禅院では茶が盛んに飲まれており、栄西が茶の効能について感銘を受け、日本へ持ち帰ったといわれています。栄西は茶の効能や飲み方を解説した書物『喫茶養生記』を編纂した人物です。これは日本で初めての茶の専門書といわれており、栄西はこの書物を1214年(建暦3年)に鎌倉幕府将軍の源実朝が二日酔いのときに献上したと鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記録されています。また、同時代に活躍した華厳宗の僧の明恵(みょうえ)は、栄西から茶の種をもらい、京都の栂尾(とがのお)にある高山寺に茶を植えて栽培を始めました。これは日本最古の茶園といわれており、現在の「宇治茶」の起源ともなっています。その地にその言い伝えを記す石碑が今も残り、まさにその場所から品種として登録されたのが「こまかげ」です。明恵は栂尾のお茶を「本茶」と呼んで他の茶と差別化し、茶を飲むことを人々に奨励したとも言われております。

鎌倉時代後期〜南北朝時代に様々なお寺が茶園をつくって茶を栽培するようになり、京都以外にも伊賀・伊勢・駿河・武蔵といった地域にも広がりました。最初は禅寺を中心に喫茶の風習が広がり、次第に武士にも普及しました。武士たちの社交に利用され、お茶を飲み比べて産地を当てる「闘茶」という遊びも生まれ、現在に形を残しています。この時代に宋から持ち帰り広まった茶は、碾茶(てんちゃ)や挽茶(ひきちゃ)と呼ばれるもので、茶葉を粉末状にし、湯に溶かして飲む、現在の抹茶のようなものでした。健康目的で飲まれることが多く、まだ嗜好品として飲むことは少なかったとされています。室町時代や安土桃山時代には、足利義満、豊臣秀吉らが宇治茶を庇護し、武家の間での嗜好品として茶が普及していき、村田珠光、武野紹鴎、千利休らにより茶の湯(茶道)が生じ、完成されていきます。

江戸時代に日本独自の製法として「煎茶」が誕生する

さて、煎茶はというと、江戸時代になると幕府の儀礼に正式に用いられて、武家と茶の湯は切っても切れない関係となり、このころに庶民の間にも嗜好品としての茶の文化が広まっていきました。このときから庶民が飲んでいたお茶は、茶葉を煎じたもので、現代でいう煎茶(せんちゃ)でした。1738年(元文3年)に宇治の農民、永谷宗円(ながたに そうえん)により新たな製茶法が編み出されました。それまで茶色をしていた煎茶が、新たな製法により鮮やかな緑色の水色を出すことができるようになりました。この新たな製茶法は「青製煎茶製法」と呼ばれ、全国に急速に広まり、日本における茶のスタンダードとなりました。そのため現代では永谷宗円が「煎茶の祖」と呼ばれています。さらに1835年(天保6年)には、現在も残るお茶製造会社である山本山の6代目、山本嘉兵衛(やまもと かへえ)が玉露の製茶法を考案し、煎じて飲む茶は広まっていくのでした。

茶の取引も活発化し、一大産地の宇治と江戸との間で取引が行わるようになります。このときに茶の取引は許可制となり、独自の市場が生まれました。江戸時代は茶が庶民に広まったといっても、まだまだ贅沢品という位置付けで、現在のように茶が日常的に飲まれるようになったのは、機械化により量産が可能になった大正から昭和前期の時代でした。輸出により拡大した茶の生産量を背景に、外需が落ち込んだ後、全国に茶の小売店が急速に展開されるようになった経緯は別の記事で触れたいと思います。

茶は中国から伝来し、茶の湯や煎茶として日本独自の発展をしてきた

これまで述べてきたように、日本の茶の起源は、平安時代初期に唐時代の中国から最澄ら留学僧や遣唐使によって、日本に持ち込まれて栽培が開始されました。しかしこの時代の茶は、現在私たちが「日本茶」として親しんでいるものとはまったく異なるものでした。そして、一時はあえなく衰退することになったのです。今の日本茶の実質的な起源は、鎌倉時代に宋時代の中国から栄西が持ち帰り、明恵が茶園をつくって栽培した粉末状の茶、抹茶であるといえます。私たちが日常的によく飲んでいる煎茶の起源といえば、江戸時代の日本に発祥し、それまでの茶の製法が劇的に変化し、改良されてできたものということになります。このように茶というものの起源は平安時代にさかのぼるものの、日本茶・煎茶という観点でみれば、その起源は鎌倉時代や江戸時代の日本で発祥したわけであります。一般的な家庭の中に急須や煎茶が普及したのはさらにそのあとになり、大正から昭和前期の近現代という事実も非常に興味深いことです。

これまで、日本における茶の起源を探り、現代に続くまでの道のりをご紹介してきました。茶の歴史は古く、中国から入ってきた茶は日本の文化に合わせて独自の発展を遂げています。また、茶はその時代の仏教や武家社会からの影響を色濃く受けて変化してきたものであるといえます。そのルーツには、最澄、栄西、明恵、千利休、永谷宗円、山本嘉兵衛といった茶の発展のキーパーソンの存在が浮き上がってきます。現在、嗜好品として日常的に飲まれている茶には、このような長い歴史が脈々と受け継がれています。

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